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COLLECTION

2024 SPRING & SUMMER COLLECTION SEASON CONCEPT

命は、命によって生かされている。この事実を、私たちはどれほど忘れて暮らしていることだろう。今日食べる物も、今日まとう服も、たくさんの命から与えられたものだ。

 シルクは、かいこまゆから作られる。蚕は、桑の葉を食べる野生のガのクワコ(桑子)を、人が飼うからカイコ(飼子)と言うようになった。五千年前に中国大陸で飼育が始まり、日本には弥生時代にもたらされた。そして江戸時代には、質の良い繭から絹糸をつくる技術が確立した。
かつて多くの農家では、屋根裏部屋で蚕を飼って共に暮らしてきた。寝静まった真夜中、幼虫が桑の葉を食べる音が天井から聞こえてきたそうだ。それは静かに降る雨音のようだった。
 シルク −知っているようで知らないこの糸端をたどって旅に出よう。それは命の源を訪ねる旅だ。そこには過去から現在につながるたくさんの営みが、一本の糸でつながっている。

 山形県の庄内地方。肥沃な平野には、見渡す限り美しい水田が広がっている。江戸時代は徳川譜代の重臣 酒井家が治めてきた。藩主と家臣、領民との結びつきは深く、現代でもご当主は鶴ケ岡城趾の傍に住んで「殿様」と呼ばれ、多くの市民から敬愛されている。
 庄内藩のサムライたちは、戊辰ぼしん戦争で幕府側として勇敢に戦い、戦後は賊軍の汚名をそそぐために刀をくわに持ち替えた。そして広大な松林を開墾して桑畑を作り、養蚕のための建物を次々と建てた。明治時代の「富国強兵」の「富国」を担ったのは、実質的にはシルクの輸出だった。その先陣を切ったのが、庄内のサムライたちだったのだ。
 それから150年。日本のシルク産業は、化学合繊の発明や、中国やブラジル産の安価な量産品に対抗できずに、国内ではほとんどが消滅してしまった。蚕を育てて糸をとり、布に織って柔らかく精練し、美しく染め上げて縫製する。これを一貫して行える産地は、日本にはもうここ鶴岡しかない。もちろん非常に厳しい状況にあるが、それでも今まで踏みとどまって続けてこられたのはなぜだろう。
「それは先人たちの想いを繋げたいという志です。」
と、鶴岡シルクの大和匡輔さんは言う。たくさんの工程があるシルク産業は一社だけではできない。「みんなで助け合いながらやる」という藩校「致道館」の精神が、今も脈々と生きているのだ。
 繭から糸をとる「製糸」の工程を見せてもらった。ワラで作った筆でお湯の中の繭をなでると、外側の糸端がほぐれてくる。くるくると繭が回転し、糸巻に巻き取られて、輝く乳白色の絹糸が生まれてくる。
ふと水の中を見ると、薄く透明になった繭の中に、小さなサナギの姿が透けて見えた。繭一つが、一つの命。この当たり前の事実に、あらためてハッと我に返る。絹の着物1反には、実に三千二百頭ものお蚕さんの命が織り込まれている。

 今日食べる物も、今日まとう服も、たくさんの命から与えられたものだ。それが植物であっても、動物であっても変わりはない。命は命によって生かされている。それを想い、無駄にせず、最後まで使わせてもらう。食事の前に「頂きます」と手のひらを合わせるように、服をまとう時にも、その仕事を伝えた先人や、今生み出してくれている工人や、一本の命の糸の連なりにまで、心の花を手向けたい。

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